光学技術

蛍石

妥協のないレンズ作りは、素材そのものの創造から

高温で熱したとき、光を放って飛び散る不思議な石、フローライト(Fluorite)。まるで夏の夜に舞い飛ぶ蛍のような美しさに、その石は「蛍石」と名付けられた。化学記号CaF2と書き表される、このフッ化カルシウム結晶は、「石」というその名が示すように、天然に見られる鉱物の一種である。目立つ特徴は屈折率や分散性がきわめて低く、赤外・紫外線に対する透過率が良いこと。しかし、注目したいのはもっと別の点にあった。光学ガラスでは得られなかった鮮やかで繊細な描写力の実現。そのために、まだ誰もなし得なかった「蛍石」の高性能レンズ開発を目指し、「キヤノンF計画」がスタートした。

蛍石に注目した例は、過去にもなかったわけではない。1800年代、すでに天然結晶が顕微鏡の対物レンズに利用された記録もある。その後、人工結晶の生成も試みられるようになり、望遠鏡のような大きなレンズにも用いられつつあった。しかし技術の壁は大きく、一般レンズへの採用はまだまだ実現不可能だとされていた。その困難の前にも、研究者の熱意は変わらなかった。「蛍石そのものを自らの手で開発し、高性能レンズを開発させる。」それは、ひとつの大きな挑戦だった。光の焦点のズレは、色のにじみとなって現れ、撮像画像のシャープネスを乱す。これが「色収差」である。レンズを開発する時、この「色収差」をいかにして取り除くかが、高性能実現の鍵だと言っていい。色収差の補正にはまず、分散の小さい凸レンズと、分散の大きい凹レンズを組み合わせて光線の進行方向を一つにそろえ、焦点を一致させることに始まる。

しかし、色収差を補正するために組み合わされたレンズでも焦点付近をよく調べると、赤と青の波長の中間にくる色、緑の焦点は依然としてズレを生じているのが確認できる。このわずかな残存色収差を、二次色収差または二次スペクトルと呼ぶ。このやっかいな二次スペクトルの徹底除去に大きな効果を発揮するのが「蛍石」である。蛍石は、分散が飛び抜けて低く、しかも光学ガラスと大きく異なる「異常部分分散」という性質を持つ。通常の光学ガラスにはないこの特徴を生かして蛍石の凸レンズを作り、色消しをすれば二次スペクトルはきわめて小さくなり、赤・緑・青の焦点がほぼすべて合致する。光の焦点は一点に集まり、Lだけにしかないシャープな描写性能が実現するのである。「キヤノンF計画」のスタートから2年後の1968年。ついに人工の蛍石結晶ができあがった。それは、もちろん、日本で初めての成功だった。

蛍石レンズ 加工の流れ

しかし、蛍石をカメラ用レンズへ採用するためには、まだいくつものハードルを越えなくてはならなかった。できあがった蛍石の結晶は非常に傷つきやすかった。他の光学ガラスと同じように磨くことが許されないため、それまでに培ってきた研磨技術をベースに特殊な研磨技術までもが開発された。研磨には通常の4倍の時間をかけ、研磨後の洗浄も一枚一枚手間のかかる手拭きを採用した。こうして1969年、ついに1本のレンズが完成した。世界初の蛍石採用レンズ「FL-F300mm F5.6」である。焦点距離が長いだけ二次スペクトルの影響を大きく受ける望遠レンズでは、この蛍石の性能を大いに発揮。蛍石を搭載した超望遠レンズシリーズはその描写の繊細さ、コントラストの高さに、世界中のフォトグラファーから高い支持が集まっている。