
かつて香港の九龍地域にあった高層スラム「九龍城砦」。無秩序で混沌とした建物が集まる一帯に4万人もの人が暮らしていたと言われ、今なお映画やゲームなどの創作物に多大な影響を与え続けている。今回は、7年にわたってこの地に通い、撮影を続けた宮本隆司の写真展『九龍城砦 Kowloon Walled City』から、その一部を紹介する。
大学卒業後、建築雑誌の編集をしていた私は、そこで写真に目覚めました。編集部に出入りしている写真家たちに触れ、建築写真の面白さを知ったのです。当時、建築写真は、今以上に特別な技術が求められました。それでも私は、撮影に同行しながら独学で技術を身に付け、ついには編集者を辞め、写真家として活動をはじめたのです。
ただ、当然すぐに仕事がもらえるはずもなく、作品を雑誌に持ち込んだり、竣工写真を撮影したりしていました。その中で、「中野刑務所が壊されるから記録として撮影してほしい」という依頼が来たのです。「どうせ取り壊されるのなら、すべてなくなるまで撮影しよう」。そうした単純な思いつきから解体現場の撮影をはじめ、ほかにも東京には取り壊される建物がたくさんあると考え、解体現場の撮影を行うようになりました。
解体現場の撮影を続けるうちに、写真本来が持つ力の存在に気付きました。建物が取り壊され、なくなることで、その建物の写真の価値が高まる。そして、時が経てば経つほど、それはより大きな力となるのです。そうした写真の力が、常に、私がこれまで行ってきた写真表現のベースにあります。
九龍城砦を撮影するようになったのは、東アジア近代建築史の研究者とともに行動しているとき、香港に九龍城砦という高層スラムがあり、それが取り壊されることになったという情報を得たからです。初めて行った1987年から取り壊しが完了する1993年まで、毎年撮影に足を運びました。
初めは、入り口が分かりづらく、周りをぐるぐる回っているだけでした。一度入ったら出てこられないという噂もある「魔窟」と称されていたので、恐怖心もあり、中に入るのを躊躇していたのです。
しかし、撮影を重ね、内部に入るようになると、徐々にイメージは変わっていきました。確かに換気が悪く、非常に暑くて快適とは程遠い場所です。内部は細い路地が入り組んでいて、迷い込んだら出られなくなる迷宮のような恐怖感もあります。けれど、ここで暮している人たちの凄まじいまでのエネルギーを肌で感じ、次第に怖さを忘れ、彼らの暮らしを撮ることに夢中になっていったのです。
また、最初は取り壊しが決まっている建築を撮るつもりでしたが、徐々に建築ではなく、街を撮る感覚に変化しました。九龍城砦は、いわば建築家のいない建築です。無秩序に配されたパイプ。空気の流れなど一切ない建物の最奥部。計画性など何もなく、誰もが思い思いに増築し、自己増殖を繰り返す。ただ、そこに人が集まることで、建物がやがて街になるのです。九龍城砦は、誰かが意図してつくった都市ではなく、自然に誕生した都市の初源の空間でした。
撮影を終え、すでに20年以上が経ちました。今、九龍城砦のあった場所は整備され、公園になっています。ただ、これらの写真が残っている限り、かつてはこのような光景が存在していた証となり、また、その写真を見返すたびに、私自身も撮影していたときの感覚が鮮明に蘇ってきます。そして、それこそが、写真が持つ根源的な力なのだと思います。
1947年、東京生まれ。1973年、多摩美術大学グラフィックデザイン学科卒業。
建築雑誌「住宅建築」編集部員を経て独立。解体中や放置された建築を撮影して発表、廃墟の写真家として知られる。1989年「建築の黙示録」「九龍城砦」展覧会、写真集により第14回木村伊兵衛写真賞受賞。1996年「KOBE 1995 After the Earthquake」展示により第6回ヴェネチア・ビエンナーレ建築展金獅子賞受賞。2005年、世田谷美術館個展「ピンホールの家」展示により第55回芸術選奨文部科学大臣賞受賞。2012年、紫綬褒章受章。2014年、徳之島アートプロジェクト実行委員会代表として活動の範囲を広げつつある。
[ 掲載記事について ]
こちらの記事はキヤノンフォトサークル月刊会報誌「CANON PHOTO CIRCLE」2016年6月号に掲載されたものです。
[ 著作権について ]
当写真展関連ページに掲載されている写真の著作権は作者に帰属します。これらのコンテンツについて、権利者の許可なく複製、転用などする事は法律で禁止されています。
写真展の情報・作家メッセージなどは、開催当時の内容を記載しております。予めご了承ください。