キヤノン:キヤノンギャラリー S | 上田 義彦スペシャルインタビュー

上田 義彦 スペシャルインタビュー

キヤノンギャラリー S「Materia 2015」開催によせて

展示情報

上田 義彦 Materia 2015 2015/11.14(Sat) 12.12(Sat)日曜・祝日休館 会場 キヤノンギャラリー S
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この地球の「生命を生む力」を探求するために、世界中を巡り、
シャッターを切り続けてきた、上田義彦氏。
今回は、そうして撮り集められた作品が並ぶ写真展「Materia 2015」の開催に合わせ、
上田氏に、どのような思いでファインダーを覗き、この世界を見つめているのかを語っていただきました。

「Materia」という言葉との出会いが、自分の中でくすぶっていた写真の方向性を定めてくれた

― 「Materia 2015」は、どのような思いで撮られた作品でしょうか?
「Materia」とは、ラテン語で【木の幹】そして【生命を生む力】という意味もあります。ここで言う生命とは、何も動物や植物などの生き物ばかりではありません。この地球をかたちづくる大地や海、そこを照らす光など、それらすべてに生命力を感じます。僕は、そうした生命の源、ひいては地球のおおもとを見つけ、写真で表現したいという思いを持っているのです。
― そもそも「Materia」というシリーズは、どのような経緯で撮り始めたのですか?
「Materia」を撮る事になるのは、「Quinault」のときに経験したことが大きく影響しています。北アメリカの森を歩いているとき、偶然なのか、必然だったのかは今となっては分かりませんが、深い森の中にひっそりと佇む一本の木と出会ったことから始まります。それまでは、森の中に入っても、木の幹や葉のディテールを見るため、下ばかり向いて歩いていたように思います。しかし、このとき、ふと何かの気配をかたわらに感じ、瞬時に8×10をかまえ、そこにそびえ立つ一本の木を写真に収めたのです。その写真には、今までの僕の写真では感じられなかった「何か」が写り込み、自分の中で「新しい写真」の位置を感じました。そしてその写真を見て以降、僕は写真に求めるものが変わり、そしてその後、おそらく10数年を経て「Materia」という言葉と出会ったのです。
この言葉の意味を知ったとき、「Quinault」以降、僕がぼんやりと抱き続けていた「新しい写真」の位置(アドレス)に対する思いがこの言葉によってすっきりと晴れたような気がしました。この言葉の指し示す通り、生命を生む力、この世の成り立ちを見つけたいという写真表現の方向性が定まったのです。
― 「Quinault」の延長線上で「Materia」という言葉と出会われたのですね。それでは、その両者の間で、何か変化はありましたか?
大きくは変わっていませんが、強いて言えば写真における光の意味のとらえ方が変わりました。「Quinault」は、森の中の一番底に自分がいるような、木々の枝葉を通してかろうじて届いてくるその神秘的な光を愛して撮っていたと思います.しかし、「Materia」シリーズの最初である屋久島に撮影に行ったときは、自分の周りに光が充満しているような、木々や葉を通して乱反射している光をこよなく愛して撮影していました、その光に生命を生む力を強く感じながら。
「Quinault」と「Materia」を撮った屋久島では、森という題材は同じでも、その森にある光のとらえ方が大きく異なっていました。
― 写真にとって、光はとても重要なものですよね。
もちろん、光がないと写真になりません。僕は写真を教えていますが、あまりにも光を意識していない人が多い。光がそこにあることは、至極自然のことなので、光より先にそれが照らすもののことを先に意識してしまうことは仕方がないかもしれません。しかし、この世界のすべてのものは、何らかの光の反射によって私たちの目に映っています。カメラの向こうの興味をそそられたことやものも、実はある光によってそれを意識させられたと考えること。反対にどんなに美しい人も、美しいものも、美しい景色も、ぼんやりとした平凡な光のもとでは、その美しさを意識する事は出来ない。光を強く意識することで、写真を劇的に変えることが出来ると思います。

記憶の中にある「いつか見た風景」を感じたままに写し出す

― 今回の写真展では、EOS 5Dsで撮影された作品もありますが、デジタルカメラでの撮影はいかがでしたか?
初めてデジタルカメラで本格的に撮影したのは、EOS 5D Mark IIIでスコットランドを撮影したときです。そこで、これまで8×10カメラではどうしても撮れなかった自分自身の求めるランドスケープの何かが、このカメラなら写せるとある時実感しました。遠くの一点に向かう集中力があり、それが強靭に全体を支えながら、手前のものもしっかりと写せている。これは僕だけの独特な印象なのかもしれません。自分が感じたランドスケープというものを写せず、常にもどかしく思っていたところに、EOS 5Dsと出会ったのです。だから、このカメラを手にしてからは、ランドスケープを撮ることがとても楽しくなりました。
― デジタルカメラを手にしたことで変化したことはありますか?
撮れるものが増えました。例えば、光が乏しい夜などは、今までは写るはずはないと諦めていましたが、EOS 5Dsは、自分が見ているものを写してくれる。昼の世界と夜の世界があるとしたら、これまでは暗闇の広がる夜の世界が半分撮れていなかった、この残りの半分の暗闇をそのまま写せるようになったのは、相当の喜びです。
― 今回は、水中撮影もされたそうですが?
「Quinault」を撮影していたときから、いつかは海の中も撮りたいと思っていました。森を撮っているとき、森の中と水の中の世界は、実はよく似ているのではないかという思いがありました。これもデジタルカメラのおかげでライトなしで暗い海の中の撮影が実現できました。水の中で森と同じように写真が撮れたことは、最高の喜びでした。
― 実際に潜ってみていかがでしたか?
想像通り水の中も森とよく成り立ちが似ていました。海の中を撮影していて実感したのはあたりまえですが、この地球はすべてつながっているということです。地球というのは、人間が勝手に国の名前をつけたり、境界線を引いたりして、そういう概念によって違う場所だと思い込まされているに過ぎない。だから、そうしたいわゆる概念を取っ払うと、森の中も海の中も、地球上のあらゆる場所はつながっているという感覚が芽生えるはずです。
― もっと撮らないといけないというのは、海の中のことですか?
いえ、海だけではなく、おおげさに聞こえるでしょうが地球上のすべてです。この海の写真ですが、この場に立ったとき、僕は太古の地球の姿というか、遥か大昔から変わらぬ時間がここには流れつづけていると実感しました。そして同時に、何千年も前にこの場所に立った人も、僕の目の前に広がっている眺めとまったく同じ眺めを僕と同じように見つめていたに違いないと思いました。そんな思いを抱きながらシャッターを切ると、その写真には、この場所が持っている時間が写り込み、さらには、僕がこの場所と出会えた喜びまでも写し出されているように感じられます。
― 上田さんが感じたままのランドスケープを写し出すことができると。
そうですね。僕がランドスケープを撮るときは、「目の前の眺めがきれいだな」とか、「紅葉が美しい」などといった「いわゆる美しい景色」ではありません。そうではなくて、「もしかしたらいつか、どこかで僕が生まれる以前の記憶かもしれないと思う様なことの中で見たことがあるかもしれない」と感じたときにシャッターを切っている様に思う時があるのです。僕の記憶の中にあるいつか見た風景、言葉にはできないけど涙が出てくるような眺めといったもの。例えば、レオナルド・ダ・ヴィンチがモナリザを描いたときのことを僕は勝手に想像するのです。彼はモナリザは当然ですが、それよりもさらに後ろにある風景を一生懸命に描いたのではないかと。それは、ダ・ヴィンチの記憶の中にある風景、思いを馳せることができる、遠くを見つめ続けることができる風景を描いたのではと。そして、僕も写真でそのようなことを写そうとしているのかもしれません。
― 上田さんのランドスケープの作品を見ると、明確な被写体がなく、上田さんのまなざしそのものが写っているように感じます。例えば、多くの人はモナリザが被写体だと思うのでしょうが、実は、ダ・ヴィンチは後ろの風景を描いていた。同様に、上田さんは、目の前に広がる眺めの中で、ある特定のものを見つめるのではなく、全体を見ながら遠くに思いを馳せている。だからこそ、上田さんのまなざしが感じられるのかもしれないと思いました。
そうかもしれません。僕は目の前の景色から何かを感じたとき、言葉では言い表せない感情と言いますか、何か撮らざるを得ない感覚に陥ったときにシャッターを切っているように思います。そして、その写真にはそのような自分の強い思いが写り込むと考えています。また、ずっと信じていることがあります。写真を撮るときに経験したこと、感動や喜びといった感情も、その写真を見た人に必ずそのまま伝わると信じています。そして、写真を撮った人が、目の前の風景に釘付けになっている時間が長ければ長いほど、その写真の前に立った人も、長く釘付けになるのではないかと…。

世界中を巡って集めた破片が、生命を生む力や世界の成り立ちを教えてくれる

―「Quinault」での「新しい写真の誕生」が大きな経験だったとおっしゃっていましたが、デジタルカメラを手にしたことで、同じように重要な一枚は生まれましたか?
先ほど挙げたスコットランドの写真がそうです。そのほかにも、海の写真や海中写真、パタゴニアの写真もそうした一枚と言えます。これらの写真は、僕にとってアドレスのような作品なのです。写真を撮り続ける中で、ときには迷うこともある、写真家なら。そうしたときに立ち戻れる場所、改めてそこからもう一度出発できるアドレスだと思っています。写真家にとって、こうした一枚は非常に重要だと思います。
― 写真を撮り続けながら、アドレスとなる作品を一枚一枚刻んでいくと。
そうですね。あと、最近になってボンヤリと感じていることなのですが、僕の写真は絵画に通じるものがあると…。
― それは絵画的な写真を撮りたいということですか?
いえ、そうではなく、写真と絵は通じるものがあるなと。例えば、印象派のモネにしても、彼の頭の中の絵は瞬時にできていると思うのです。目の前の世界から受け取るインスピレーションは一瞬で、その最高の瞬間を頭に焼き付けている。絵画は時間をかけてそれを再現しなければいけませんが、写真はそれをそのまま写すことができます。けれど、世界から受け取ったその一瞬には、それほど大差がなく、つまりは、表現する道具が、絵筆かカメラかという違いだけだと考えるようになったのです。さらに言えば、モネは長い時間をかけて絵を描くけれども、彼の描く一筆一筆はその時間を限りなく一瞬に近づけ、そしてその印象をどうにかして瞬時に描き止めたいという衝動に駆られ続けて描いていると思います。そして、写真家も、目の前の光景から受けた強い印象の一瞬を写し止めたいという衝動によってシャッターを切っています。写真家も画家も、衝動や印象という強い何かに動かされ、画面の中にそのことをとどめようと必死にもがくという意味で、とても通じるところがあると思うのです。
― これからも「Materia」のシリーズは撮り続けるのでしょうか?
一生続けるでしょうね。まだ入り口に立ったばかりだと思っています。デジタルカメラを手にしたことで写せるものが増えた今、撮り残しているものが世界には溢れていますから。僕が世界を巡って撮っているのは、いわば、この世界の破片のようなものかもしれません。しかし、その破片は全体を想像させるものです。そこには僕が感じた世界が写っています。誰かが撮った世界ではなく、改めて自分自身の目で世界を見て捉え直す。そして、ファインダーの中の小さな世界に、太古の時間や生命を生む力が見えてくる、世界の成り立ちや、いろいろなことを教えてくれる。だからこそ、僕は、この自分の目で世界を見つめ、撮り続けたいと願っています。

展示情報

キヤノンギャラリー Sで、EOS 5Dsで撮影した作品の迫力を体感ください。

上田 義彦 Materia 2015 2015/11.14(Sat) 12.12(Sat)日曜・祝日休館 会場 キヤノンギャラリー S
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上田 義彦 Yoshihiko Ueda
1982年に独立。写真家、多摩美術大学教授。
東京ADC賞最高賞、ニューヨークADC賞、カンヌグラフィック銀賞、朝日広告賞、日本写真協会 作家賞など国内外のさまざまな賞を受賞。
代表作として、ネイティブアメリカンの神聖な森を撮影した『QUINAULT』(京都書院、1993)、「山海塾」を主宰する前衛舞踏家・天児牛大のポートレート集『AMAGATSU』(光琳社、1995)、自身の家族に寄り添うようにカメラを向けた『at Home』(リトルモア、2006)。屋久島で撮り下ろした森の写真『Materia』(求龍堂、2012)。ガンジス川の人々を撮った『M.Ganges』(赤々舎、916Press、2014)。
2015年4月には数多くのポートレートや自然、スナップ、広告などを撮りつづけてきた自身の30有余年の活動を集大成した写真集『A Life with Camera』(羽鳥書店、2015)を発表。現在Gallery916にて『A Life with Camera』展を開催中(2015年12月27日まで)。
また作品は、Kemper Museum of Contemporary Art (Kansas City)、New Mexico Arts (Santa Fe)、Hermès International (Paris)、Stichting Art & Theatre (Amsterdam)、Bibliothèque nationale de France (Paris)などにそれぞれ収蔵されている。
上田 義彦 Yoshihiko Ueda
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