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トップ > 特集 「アイデア」と「思い」が新しい可能性を切り開く よみがえる地方 > P2
「地方創生」が日本全体の課題となってから数年がたつ。次第に明らかになってきたのは、「地方」とひと口に言っても、その内実は極めて多様であるということだ。人口減や産業の衰退といった課題は同じでも、それぞれの地域には独自の歴史があり、特有の文化がある。その地域の個性に合った方法でなければ、その地方が創生することはないだろう。各地の独創的な取り組みの中に、地方をよみがえらせるヒントを探る。
徳島市街からバスで1時間余り。周囲を豊かな山々に囲まれ、清流・鮎喰(あくい)川を見下ろす土地に神山町の中心地はある。中心地といっても、風景はあくまでのどかな山村。時折、お遍路姿の巡礼者を道で見かけるが、人の姿はまばらだ。
2010年代に入ってから、この山深い町に150人に上る人たちが移住し、現在12の会社がオフィスを構えている。この3月には、徳島市への移転を検討している消費者庁の職員が、4日間の試験勤務をこの町で行った。
人口6000人を切り、現在も縮小のさなかにあるこの小さな町に、なぜ外から人が集まってくるのだろうか。徳島自体が、全県に光ファイバー網を張り巡らせた「IT先進自治体」だから──。それも一つの答えだが、回答として十分ではない。確かな答えを探るには、二十数年前まで時間をさかのぼる必要がある。
神山町の活性化を中心で担うNPOグリーンバレーの理事長、大南信也さんは家業である建設を学ぶため、20代のころ、アメリカのシリコンバレーに留学した。
「シリコンバレーは、1930年代までは農業地帯でした。しかし、いろいろなベンチャー企業がそこで活動を始め、たくさんの人材が集まってくることで、半導体産業が盛んになったわけです。何もない所でも、創造的な人さえ集まれば何かが起こる。そんな淡いイメージがずっと頭の中にありました」
物心ついたころから神山の人口は減り続けている。かつては盛んだった林業も、価格競争の中で衰退してしまった。この「何もない町」をよみがえらせるにはどうすればいいか──。町で生まれ育った仲間とともに大南さんがアイデアを練り始めたのは90年代になってからだ。
チャンスはまもなくやって来た。「とくしま国際文化村」をつくるという徳島県の動きに呼応して、画家や造形作家などのアーティストを町に招聘し、ここで生活しながら制作活動を行ってもらう「アーティスト・イン・レジデンス」を99年に始めたのだ。それが、この町に外から人がやって来る先駆けとなった。その中から町に定住したいという人が少しずつ現れ始め、自費で訪ねてくるアーティストも増え始めた。
「その活動を7年ほど続けたころだったでしょうか。アーティストがこの町で仕事をしているのであれば、他の仕事をやる人が来てもいいのではないか。そんな提案をもとに、仕事を持っている人にこの町に移住してもらおうという次のプログラムを始めたわけです」
「ワーク・イン・レジデンス」と名付けられたプログラムを知って、全国からさまざまな職能を持った人が町に集まってきた。レストラン、パン屋、歯科医、靴職人。名刺入力を手掛ける企業や、映像制作などのオフィスも徐々に増えていった。
仕事の場は、人口減少に伴って発生した空家。グリーンバレーが町内のネットワークを駆使して、最適な空家を紹介する。だが「こんな活動をしてほしい」と要請することはない。移住者が自由な発想で活動できる環境をつくるだけだ。
「何もない町ですから、資源は人しかありません。重要なのは、クリエーティブな人材に集まってもらうことです。そうすれば、そこから自然に新しいものが生まれていくはずです。その人たちの自由なアイデアを私たちの狭い感性で邪魔してはいけないと思っています」
庭先を外国人が日常的に歩いているような環境が当たり前になることで、地域の人たちの意識も変わり始めた。異なる発想や価値観を受け入れようとする雰囲気が芽生え、自分たちも生活を楽しもうとする意欲が確実に生まれている。
「お年寄りがビストロでおいしいワインを飲んで、若者たちと交流するようになりました。以前と比べて町の中が生き生きしているのを肌身で感じますね」
人口が減っているから、外から人を呼び込む。そんな発想は一切ないと大南さんは言う。これからは人口という物差しで物事を計ってはいけない、人口減を前提とし、そこで何ができるかを考えなければいけないのだ、と。
「私たちにできるのは、人と町をつなぐことだけです。それさえ続けていけば、思いもしなかった新しいものがこれからも生まれていく。そう信じています」